透過您的圖書館登入
IP:3.144.113.197

台灣日本語文學報

  • OpenAccess

台灣日本語文學會,正常發行

選擇卷期


已選擇0筆
  • 期刊
  • OpenAccess

一九九九年八月号の「新潮」に掲載された短編小説「UFOが釧路に降りる」は、村上春樹が一九九五年の一月十七日に発生した阪神・淡路大震災をモチーフとして創作した連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収録されている最初の作品である。地震を直接扱うわけでもなく、また、被災地である神戸を作品舞台とするわけでもなく、地震による様々なタイプの人々を「三人称」で描いたと村上春樹は自ら解題している。作者の説明を素直に受け入れるべきかの議論は残るが、論者は敢えて、村上春樹がどのようなタイプの人間を連作における第一作目に「三人称」で描いたのかという問題意識から切り込むことにした。春樹文学では珍しい「三人称」でなければ描けない何かが「UFOが釧路に降りる」をはじめとする連作には込められているのではないかと推測されるからである。そして、連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』ではあまり単独で注目されることがなかった本作をテクストの順を追って丹念に読み解くことで短編集の新たな可能性に繋げればと期する。

  • 期刊
  • OpenAccess

北杜夫(1927-2011)の第一長篇である『幽霊』を論じたものとして、最もよく知られているのは奥野(1978)である。奥野はこの作品を「作者の幼少時、少年時の記憶や体験が基礎になった」ものであるとし、更に北杜夫のエディプス・コンプレックスを指摘している。ただ、奥野の説は北杜夫自身による、『幽霊』は「初期作品の集大成」という言葉の意味を十分に説明しているとは言えないようである。本稿は北杜夫の『病気についての童話』と『幽霊』を、「病気」という共通のキーワードから具体的に比較・分析することにより、両者の間にテーマ上の関連性が認められる点を指摘すると同時に、『幽霊』がなぜ「初期作品の集大成」になり得るかという問題に、一つの答えを提出するものである。

  • 期刊
  • OpenAccess

宮沢賢治と商業的農業との関わりを考えようとする際、当時、岩手県農会技手であった川原仁左エ門の証言は極めて重要である。しかし、先行研究において、それが正しい形で参照されてきたとは言い難い。そこで、本稿では川原の証言の中に出てくる事物や事象の歴史的背景を確認しながら、川原の証言について再考察すると同時に、特に東北砕石工場技師時代の賢治と商業的農業との関わりの特徴を整合的に説明することを試みた。考察の結果明らかになったのは、技師時代の賢治は商業的農業に関心を示しつつも、同時にその販売面には無頓着であったという事実である。さらに、そうした賢治の農業方針が晩年に変化していることも、「グスコーブドリの伝記」を例に確認した。

  • 期刊
  • OpenAccess

本論文は、「二人の国民作家」と呼ばれた漱石と村上春樹の持つ、作家を職業とする意識の究明を目的としたものである。村上春樹『職業としての小説家』(2015)と、『漱石全集』第11 巻、『漱石全集』第16 巻を資料とし、評論、講演、文学賞、職業作家意識、読者への対応の5 点に分けて、「二人の国民作家」の異同の探求を進めた。考察した結果、評論、講演の2 点では、漱石は村上春樹とあまり変わらない消極的態度を採っていたが、朝日新聞社入社後、積極的に行うようになっている。また文学賞などの権威を盾にしたシンボルを、漱石は断じて拒絶する姿勢を見せた。一方、村上春樹は文学賞よりも読書・執筆の方が大事だと述べている。そして、職業作家意識、読者への対応の2 点については、多少相通じた点が見られる。ただし、読者への目線の位置の違いからは、漱石と村上春樹の両者が生きた時代の相違を覗くことが出来る。とはいえ、時代の枠を超えて、両者の職業作家としての意識は一致している点が多い。そこからは、漱石文学を自分の永遠なる憧れにし、愛慕しつつある村上春樹の姿がくっきりと見られる。

  • 期刊
  • OpenAccess

筆者は、辻仁成の『母なる凪と父なる時化』という作品に関して、主人公であるセキジと、彼と酷似した容貌を持つレイジとの二人が鏡像関係にあり、兄弟性、ひいては双生児性が認められることを、特にレイジを中心として、「2015 年度台灣日本語文學國際學術研討會―日本語文学研究における『S字カーブ』への挑戦―」において、「レイジの殺人理由あるいはセキジとの鏡像関係」という副題で発表した。そもそもセキジとレイジは作中において相互補完する存在であるが、本論文もまた前回の発表と相互補完する関係にある。今回の論文では、二人がお互いを自分の「現実についてのすぐれた象徴をあたえる」自分自身の失われた統一的存在と認識することによって、レイジが山谷を殺害し、過去を清算して前向きに生きるようになったように、セキジもレイジによって自分の家庭の欺瞞に気付き、引き籠っていた無力な自分からの脱却を目指すようになることを論じるものである。

  • 期刊
  • OpenAccess

本研究では、自然談話である『日本語話し言葉コーパス』(英名はCorpus of Spontaneous Japanese:以下、CSJと省略)の「自由対談」における「だろう」の形式と機能に焦点をあて、その使用実態などの様相から、コミュニケーションにおける配慮表現としてのポライトネス.ストラテジーを考察の対象とした。その結果、今回の「だろう」に関する談話資料では、男性は「無標音調タイプ(押し付け型の確認)の方を頻繁に用いることが観察された。一方、女性は「末尾上げタイプ(伺い型の確認)」の「だろう」の方が多く現れる傾向があった。また、①「共感」②「助言」③「主張」④「独り語」などの語用論的機能が観察された。具体的にどのような「だろう」の語用論的機能が多用されていたかを見ると、男性は不確かな情報を述べる「主張」と「共感」というストラテジーを多く使用する傾向にあり、それは相手に主体の態度や考え方などを受け入れてほしいと訴える意図を知らせるポジティブ.ポライトネスに関連する機能の存在を示している。また、女性の会話では「助言」や「独り語」の使用回数は男性より多く現れることがわかった。これはFTAを緩和する配慮表現であると考えられる。

  • 期刊
  • OpenAccess

物語の四層構造から見た三語の異同をまとめると、以下の通りである。発話部の場合では、「あのころ」は発話時を基準軸とするものであるが、「このころ」「そのころ」は出来事時を基準軸とするものであることがわかる。また、話し手と聞き手が共通に体験していない出来事について述べる場合や予想される未来の出来事を表す場合は、「そのころ」が用いられるが、共通に体験している出来事について述べる場合や独り言の場合や、話し手の特定の体験について尋ねられている場合は「あのころ」が用いられる。なお、話の流れの中で特に相手の注意をひきたい部分では、「このころ」が用いられる。それに対して、発話部以外の場合では、「このころ」は「コメント部」に、「そのころ」は「背景部」の「微視的背景」に、「あのころ」は「背景部」の「巨視的背景」に属する。このように物語の四層構造という観点から三語の使い方をみると、指示詞の「この」「その」「あの」からの影響があると言える。

  • 期刊
  • OpenAccess

台湾の日本語学習者にとって、「オット(夫)」「オト(音)」や「クロー(苦労)」「クロ(黒)」などの促音,長音の有無の区別は困難である。しかし、これまでの研究成果から効果的な指導法が確立されているとは言いがたい。その理由のひとつとして、学習者の促音•長音生成における時間制御が十分に検討されていないことがあげられる。そこで本研究では、次の4つの解明を試みた。(1)重子音対単子音の比率、(2)長母音対短母音の比率、(3)重子音が語長に占める割合、(4)長母音が語長に占める割合を求め、日本語母語話者と対照するとともに日本語能力別に検討する。その結果、(1)重子音対単子音の比率では話者別による違いがあり、習得レベル別には差がないこと、(2)長母音対短母音の比率では話者別にも習得レベル別にも差がないこと、(3)重子音が語長に占める割合では話者別による違いが顕著であるが、習得レベル別には差がないこと、(4)長母音が語長に占める割合ではN3以上の者は日本語話者と差がないのに対して、N4ではいずれの習得レベルとも差があることが明らかになった。

  • 期刊
  • OpenAccess

日本語には〈正― 反〉という対立概念における〈反〉の側面を表す接頭辞には「反-」「逆-」「アンチ-」が挙げられる。例えば「反時計回り」というのは時計回りと反対の向きに回ることを表すが、「逆効果」も反対の効果ということであり、「アンチエルニーニョ」(anti-E l N i ñ o )は「E l N i ñ o」と反対の現象のことを指す。本稿ではこの「反-」「逆-」「アンチ-」という三つの日本語類義接頭辞に関して、〈反〉の側面を表す場合、それぞれの意味用法や結合する語基などの語構成において、如何なる類似または相違点があるのかを考察する。斉藤(2004)では、語には〈概念的意味〉及び〈周辺的意味〉が含まれ、〈概念的意味〉というのは語の意味の中心的な部分を占めるのに対し、〈周辺的意味〉は語の意味の周辺的な部分に位置すると論じられている。本稿ではこの観点をもって、上に述べた「反-」「逆-」「アンチ-」の三つの接頭辞における〈正〉と対立の類義用法について分析する。その結果、これらの類義接頭辞はともに〈正〉と反対、対立の概念を示す用法を表すものの、それぞれの表す〈反〉の側面の〈概念的意味〉が同じとは限らず、異なる概念もあることを見た。また、〈概念的意味〉が同じ場合は、他に〈周辺的意味〉を帯びるかどうか、またはそれぞれの結合する語基にその語構成的性質面で、異なりがあることも見受けられた。

  • 期刊
  • OpenAccess

日本語教育の最終的な目的は異文化交流能力育成にある。台湾における村上春樹は超人気作家なのでその作品が日本語学習者にも読まれているはずであるが、読む前と読んだ後で日本語学習者にはどのような文化的変化が起こるのか、日本語教師の一員として興味深いことである。村上春樹は2012 年9 月28 日に、ここ20 年来、「文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようにな」り、文化交流が豊かになった東アジアという文化圏の成熟が領土をめぐる日中韓の軋轢で破壊されることを恐れてエッセーを朝日新聞に寄せたが、一体、村上春樹の異文化観とはどのようなものなのか、本発表では『やがて哀しき外国語』をテキストに考察したいものである。『やがて哀しき外国語』は村上春樹が1991 年の始めから2 年半、アメリカに滞在したとき見聞きしたことをまとめた随筆集である。それを読んで村上春樹の国際観、異文化交流観、言語観を垣間見ることができると思われる。本研究の考察結果が日本語教育における異文化交流能力育成の参考になることを庶幾する。