鈴木登美氏は『語られた自己一日本近代の私小説言説-~において、私小説は「客観的な特性によって定義できるようなジャンノレでは」なく、「ひとつの読みのモードである」と述べ、私小説を実体的なジャンルと見て、その特性を明らかにしようとしてきた通説の方向性を批判しているが、その指摘はきわめて重要である。鈴木氏自身はそこから、「私小説言説」構築の過程を論じていくのだが、ここでは、そうした指摘を踏まえた上で、逆の方向に、すなわち、私小説としてくくられたテクスト群を個々のテクストに還元し、私小説論を批判的に参照しながら論じることによって、それらのテクストという事象そのものを対象化することを試みる。具体的に取り上げるのは、久米正雄らの論によって「私小説言説」が編成されて行く大正末期の、志賀直哉、梶井基次郎、小林秀雄らのテクストである。それらを検討すると、久米らの論に先立って私小説概念、が当時の人々に内面化されていること、言説が編成されようとしている、ちょうどその時に、実作の中では「私小説」の方法的限界が露呈していたこと、などが明らかになる。