嘉永6年6月3日(西暦1853年7月8日)アメリカ東洋艦隊司令長官マシュー・カケブレイス・ペリー(M・C・Perry)提督の率いる四隻の「黒船」が江戸、浦賀ヘ押し寄せた。アメリカが「日本の開国」を促すために派遣した艦隊であった。太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯(四隻)で夜も寝られづと、誰が作ったかとも知られぬこの狂歌は、二百数十年におよぶ長い長い徳川の太平の世にもたらされた西洋からの衝撃(Western impact)であった。そして、この時代の海洋をめぐる国際社会の潮流が、東アジアの端に位置する日本にも確実に押し寄せて来た。アメリカがペリー艦隊を日本ヘ送り、開国を迫ろうとしているという情報はすでに世界を駆け巡っていた。オランダもいちはやくこの情報を幕府に伝えていたし、ロシア帝国もまた事前にペリー訪日の情報を得ていた。北方の雄のロシア帝国もまた、日本との国境交渉と通商条約の締結は長年の案件であったので、プチャーチンをその交渉役として日本に送り出したのは、1852年1O月19日(嘉永5年9月7日)であり、長崎に入港したのは、ペリーに遅しれることーヶ月半の1853年8月22日(嘉永6年7月18日)であった。しかし、1853年に起こったクリミア戦争(1853~56)は、ユーラシア大陸に跨るロシア帝国とイスラム世界の雄としてのオスマン・トルコ帝国とが対峙する文字どりの世界戦争の時代となり、この戦争では、こともあろうにイギリス・フランスがオスマン・トルコを支援すると言う、世界史の言う国民国家形成の時代の幕開けでもあった。このような時代の影に隠れて、もうひとつの「黒船」である捕鯨船が「ジャパン・グラウンド」と呼ばれる海域、日本列島と小笠原諸島と中国大陸(ハワイ諸諸島を言う時もある)に囲まれた巨大な三角海域ヘと鯨を求めて押し寄せていた。同時期、「白い鯨」を追ってエイハブ船長の「ピークォド」号が向かったのもこの「ジャパン・グラウンド」であり、万次郎と呼ばれた土佐の漂流民を救助した「ジョン・ハウランド」号が鯨を掃っていたのも「ジャパン.グラウンド」であった。本論では、江戸日本を開国ヘと導いたペリーの「黒船」と、捕鯨船のとのかかわりから、ハーマン・メルビルが著した『白鯨』と万次郎が語ったところの『漂客談奇』を中心にして論ずるものである。