平安貴族にとって極楽浄土に至る階梯は険しく、源信『往生要集』では臨終の際のわずかな心の乱れも往生の妨げとされた。それでも「仮の世」すなわち異郷に過ぎない現世を厭い離れ極楽往生を切実に願う貴族は後を絶たず、往生伝さえ著された。平安貴族文藝である『源氏物語』では「道心」に傾きつつなお恩愛に執着し、無為に入ることなく苦と迷いの中に彷徨する人々が描かれる。物語の後半では主な舞台は京から宇治に移るが、宇治は古代伝承の残る交通の要衝である一方で、喜撰法師の和歌以来隠棲の地とされ、物語成立当時には浄土教文化もそこに浸透しつつあった。その宇治の山里に隠棲する落魄の宮の仏教的厭離の念と愛執との葛藤を表現の上から考察することで、宇治の物語に収斂する苦に満ちた現世を「仮の世」(異郷)と見果て「ほだし」を思い捨てようとする人々の逡巡と絶望の深さを照射したい。