折口信夫は「妣が国へ・常世へ異郷意識の起伏」で「現実の国であっても、空想の緯(ヌキ)糸の織り交ぜてある場合には、異国・異郷の名で、喚んでさし支えがない」として、「異郷」を憧憬の地の「常世」であり、恐怖の地の「常夜」とも捉えて、その両面価値を説く。この異郷論について、藤原茂樹は「対象を古代に限定」していると述べ、松村友視に拠れば、折口の「異郷」は「懐郷(のすたるじあ)を介して隔絶された場所」だったと言う。つまり、「異郷」とは、古代の、憧憬と恐怖の両面価値を持つ隔絶の地ということになるだろう。さて、議論の対象であった古代のうち後期の中古物語を例に挙げれば、『伊勢物語』には既婚女性の日常生活を語る章段もあり、また『うつほ物語』の「貴宮」は入内して東宮の寵愛を一身に集めたが、他の妃からの中傷のために心の苛まれる時もあった。さらに『源氏物語』で光源氏と結婚した「女三宮」は結婚当初から光源氏によって見下されていた。つまり、中古物語の女性にとって結婚生活は、まさに隔絶された「異郷」での体験だったのである。また、現代の川上弘美文学の作中女性もまた異郷体験としての結婚生活を送っている。2006年4月刊行の『夜の公園』の「リリ」は「申し分のない夫である幸夫」を「今は好きではない」し、2008年4月刊行の『風花』の「のゆり」は卓哉と「結婚しなければ、もっとちゃんと好きになっていたのに」と悔やんだ。そして2006年10月刊行の『真鶴』の「京」は失踪した夫の礼を「うらんで」いた。彼女たちにとっても結婚生活は異郷体験だったのだ。ただし、中古の女性たちの異郷を離脱する手段が出家だけであるのに対して、現代の女性たちには、異郷離脱の手段として離婚/別居という選択肢があった。そして『真鶴』で、「京」は失踪した夫不在の結婚生活から法律的には離脱するが、実は失踪した夫との再会を今でも望んでいる。つまり、夫不在の家庭は恐怖の常夜かもしれないが、夫と再会できる異郷たる家庭は憧憬の常世となるのである。その意味で『真鶴』だけは異郷を希求する女性を語った、と言い得るのではないだろうか。