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摘要


1894年(明治27年)に勃発した日清戦争(甲午戦争)の戦後賠償の一環として、台湾は日本国の植民地となることになった。しかし、台湾島民はこの下関条約(馬関条約)締結を不服として「台湾民主国」の独立を宣布し日本国との徹底抗戦の構えを示した。このため日本は、当初の台湾を平和的に清国から接収するという予定を変更して、遼東半島の旅順に駐留していた近衛師団を急速台湾平定に当てることとなった。この軍による台湾武力平定の決断は、設立当時の台湾総督府の人事権など、多くめ機能を軍が占める結果となった。また、近衛師団は台湾総督の指揮下に位置していたが、近衛師団の師団長は皇室の北白川官能久親王であったことから、初代台湾総督樺山資紀は何かと北白川宮に気を使ったと見られる行動をとっている。これまで初期の台湾総督府の評価としては無力・無能といった評価しかなかった。しかし、筆者は初期の台湾総督府の中でも特に初代の樺山総督の時代(草創期)にはそういった評価は当てはまらないのではと疑問を感じ、本時代を再評価すると共に本稿にまとめてみた。

被引用紀錄


瀧澤佳奈枝(2005)。日治時期台灣的技藝教育 ―以台北第三高等女學校為中心〔碩士論文,淡江大學〕。華藝線上圖書館。https://doi.org/10.6846/TKU.2005.00543

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