談論到日本統治時期的台灣文學,很少人會聯想到這一位作家:周金波。周金波在日本統治時期因「水癌」與「志願兵」兩部作品而受到注目,特別是「志願兵」一作更得到了「文藝台灣賞」的肯定,奠定其在文壇的地位。 在當時活躍於文壇的牙醫師作家周金波,戰後卻因這兩部代表作被指控其作品為響應殖民政府的政策而創作的「皇民文學」,而對周金波的評價更是不折不扣的「皇民作家」。戰後的周金波隱姓埋名,幾乎不再從事文學創作,而對於這位日本統治時期頗負盛名的作家及其作品的論述,更是少之又少,直到1990年代以後才又開始被討論。而其中多半是以「皇民文學」為討論的中心,對於周金波的批判更是未曾減少。近年來除了圍繞在「皇民文學」議題以外,作者的民族認同也成了另一個討論的關鍵。 本論試以日本統治時期的社會環境為出發點,敘述日本統治時期皇民化運動下的台灣。透過此寫作的背景環境,分析周金波的代表作「水癌」及「志願兵」。並藉由解讀周金波的其他作品,以推敲當時剛從日本學成歸國,對台灣這片土地懷著理想與抱負的周金波透過作品所欲闡述的理念,及作者寫作時的心境。而透過周金波的作品中對人物的描述,透露出回歸台灣這片土地後的周金波在理想與現實之間的差距下所產生的矛盾心情,以及謀求解決之道的嘗試與掙扎。
日本統治時代の台湾文学に言及する時、周金波という作家を連想する人はめったにいない。周金波は日本統治時代に「水癌」と「志願兵」の二作で注目され、「志願兵」によって「文芸台湾賞」を受賞し、当時の台湾文壇において不動の地位を得た。 戦後、この二作の代表作が植民地政府の政策に応じるための「皇民文学」だと指摘され、周金波は正真正銘の「皇民作家」というレッテルが貼られた。戦後の周金波は楊金波と名乗って、文学に触れることは殆どなかった。日本統治時代に盛名を馳せていた周金波に関わる文章や論述は非常に少なくなった。しかし、1990年代になって、周金波についての論議が復活している。その中の大部分は「皇民文学」を中心にした文章であり、周金波に対する批判は減少する傾向にはなかったが、近年になって、周金波についての研究は「皇民文学」というテーマの他に、周のアイデンティティーを中心にする研究も続々と発表されるようになってきている。 本稿は日本統治時代の台湾社会における皇民化運動を背景として述べている。そして、このような創作背景から、代表作の「水癌」と「志願兵」を分析している。当時日本大学歯科専門部を卒業し、理想と抱負を抱いて台湾に帰国した周金波が作品を通じて読者に伝えようとした信念と心境を考えてみたい。周の作品に見られる留学を終えて台湾社会に戻って来た周金波が理想と現実の間で苦悶することで生じたアンビバレントな心情とその矛盾した情念を解消するために、どのような立場へ向かおうとしたのかについても検討するつもりである。