江戶時代流行養生,而在當時頗具代表性的養生書籍《養生訓》係由貝原益軒所著。益軒根基於以『孝經』為始的儒家思想,來闡釋養生之說。相對於此,代表懷德堂儒者之一的中井履軒,在其著作《老婆心》中解說養生時,反而不甚強調儒家思想。益軒主張儒學為所有學問之上,他亦以儒學延伸研究身體保養的醫學領域,因此在《養生訓》中,儒學與醫學方得以毫無牴觸地相互印證。然則,履軒不以儒家思想為依據,而是列舉身體的內部構造,來闡述身體保養的方法。履軒之所以能得此論述,想必是在撰述《越俎弄筆》這本人體解剖圖的著作時,由執筆經驗中獲取知識所致。履軒不立基於儒家思想,根據其經驗與學習而著的《老婆心》一書,已列為重要的文獻資料之一,我們能夠透過此著作,一探履軒實學主義的學術研究態度。
江戸時代は養生が流行した時代である。養生書の代表格である『養生訓』を記した貝原益軒は、養生を説くにあたって、『孝経』を始めとする儒家思想を基盤としていた。対して、懐徳堂を代表する儒者の一人である中井履軒は、『老婆心』の中で、儒学思想を反映させることなく養生を説いている。益軒は、儒学を万全の学とした上で、身体を保全するという医学方面にも視線を向けていたからこそ、『養生訓』の中で、儒と医とを矛盾無く融合することが可能であったと考えられる。しかし履軒は、儒学思想に依拠することをせず、身体の内部構造を挙げ、身体を保全する方法を説いている。このことを可能にしたのは、おそらく、人体解剖図である『越俎弄筆』執筆の経験とそこから得られた知識とがあったからであろう。儒家思想に拠らず、経験・学習に基づいて著作された『老婆心』とは、履軒が実学主義の学問姿勢であったことを示す、重要な資料の一つであると位置づけられよう。