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華嚴學報/Journal of Huayen Buddhism

社團法人中華民國佛教華嚴學會,正常發行

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近代以來關於華嚴宗傳承的研究,由於受到部分西方與日本學者之重視文獻與歷史考據等外部方法的影響,提出不少懷疑乃至非議華嚴宗傳承的說法。這些對於華嚴宗傳承的疑難,極少是由古人對於華嚴宗傳承的立場來詳加考察。本文之有別於前人研究成果之處,正是企圖在尊重古人的論述脈絡下,嘗試挖掘出有關華嚴宗之傳承,自有其歷代相承 不絕之DNA,這DNA,正是華嚴宗之所以能在新的時代中重新活化的活水源頭。考察的方向,則是由華嚴宗諸祖之判教入手,對象包括了賢首、清涼、圭峰三位唐代祖師,以及北宋初期的長水與晉水。考察結果發現,從賢首的「頓、終二教法在圓中」,清涼的「後三教皆同一乘」,到圭峰之將終、頓、圓三教同歸於一乘顯性教,顯示出了唐代華嚴宗諸祖之間DNA的傳承。而經過唐末五代的沒落之後,北宋初年的長水,傳承了唐代華嚴宗諸祖的DNA,高唱「三教皆屬圓收」、「三教圓實不殊」。其弟子晉水,則進一步將此DNA植入新的行法中,建構出圓教修行包含同教一心(終教一心與頓教一心)及別教一心的行法架構。由此可以得出以下的結論,即欲進入華嚴宗圓教的基本門檻,在於終教。因此,由判教的角度來看,華嚴宗由唐至宋所傳承的DNA,的確要屬終教,殆無疑義。

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華嚴五祖圭峰宗密以體現法界一心圓融周遍要義之絕對真心辯證進路,融入《圓覺經》之「圓覺」圓融無礙義之奧義底蘊,予之以圓頓圓融圓即圓入之詮釋,以此統貫一真法界圓融周遍、事事無礙之諦理於其中。宗密以絕對真心融鎔會攝一切圓融無礙之華嚴一乘圓教之教義、教法、教理,融貫於「圓覺真心」之中,而圓遍無礙的開展。宗密於「圓覺」圓融要義之論證基底,乃是建立在華嚴圓教一乘,法界重重無盡無礙之緣起觀,以之開展與融構圓覺真心統貫五教教判辯證之宏規,宗密承繼了法藏賢首所開展之華嚴五教教判為其論證基底,而以佛攝儒道、援儒道入佛的論證趨向,進而以會權歸實之辯證趨向,判攝了以儒道入佛之會通之理,最終即體現出攝儒佛道入圓覺真心之終極之理趣與究極之諦理。華嚴宗密由「絕對真心」之理統攝一真法界,乃至一切法界,而擴延出三教合一之義趣,而開展出會權歸實、破相顯性、直顯心源之終極義理,其以圓融會通儒佛道之辯證進路,進一步來開展之儒佛道圓融會攝之要義,於是中,蘊具了宗密於「攝儒道歸佛」之判攝特質與詮釋主張。透觀之,此一辯證進路,實歸本於超越主客之「一心」當體融即一切法,所圓顯之即入鎔融,入即無礙,乃至圓融圓備無量法界之湛深要義,值得深入探究之。以是之故,本論文將從四重義理向度,透顯與開展華嚴宗密於 「圓覺經」諸疏所體現之「圓覺真心」究極要義,以之圓詮五教教判之圓頓詮釋,以之彰顯出圓覺真心融貫五教教判,融攝儒佛道會歸圓覺真心,乃至融會一切萬法之真實要義與終極義趣。首先,探究華嚴宗密於「圓覺真心」之圓頓詮釋:開展宗密於「圓覺真心」所開出之圓覺融通融攝一切法之圓融無礙義與周遍含容義。其次,論述華嚴宗密於儒佛道之判攝模式:體顯華嚴宗密對於儒佛道之判攝,採取了圓融會通、同歸殊途之辯證手法,至終則以會儒道之權,歸佛本之實,全然展現出以佛攝儒之核心諦理之真實義趣。其三,開展華嚴宗密攝儒道歸「圓覺真心」之教判進路:體現宗密立基於「絕對真心」本體論證,實統貫遍攝於其所建構之五教教判之中,體顯出宗密攝儒道佛歸於圓覺本性之究極之理趣。其四,體現華嚴宗密「圓覺真心」融貫五教教判之辯證觀:於是中,圓顯出華嚴一乘「圓覺真心」之既周遍含攝染淨義,統攝了人天教與小始終頓圓五教之義涵於「圓覺真心」之中,而統貫無餘。

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최근 義湘의 강의록으로 밝혀진 華嚴經問答 에 분화된 형태의 五 敎判이 사용되고 있다. 그것은 智儼의 초기 저작인 搜玄記 에서 언급된 五種敎體를 五敎判으 로 설명한 것이다. 이런 유형의 적용사례를 찾아보기 쉽지 않다. 다만 智儼의 孔目章 에 이를 眞如 설명에 적용한 사례가 있어 이를 비교 검토하였다. 실제 五敎判의 분화된 모습은 漸敎門에서만 나타나고 있다. 먼저 初敎門에서 始門과 終門을 나눈 계기는 新譯經論의 眞如에 대한 이해에서 비롯된 것이다. 여기서 初敎는 본래 空義를 본질로 하는데, 始門에 新唯識을 소속시키고 있다. 新唯識에서 밝힌 依止[阿 賴耶識]가 眞識이 아닌 妄識이기 때문에 終敎에 속하지 못한 것이며, 그 밝힌 진여가 空義에 미치지 못하기 때문에 初敎 중에서도 始門에 속한 것으로 파악했다. 한편 終敎門에서 始門과 終門은 頓敎門과 함께 파악할 필요가 있다. 왜냐하면 그것이 維摩經 의 不二法門에 대한 慧遠의 說에 대한 3단계의 설명에 기인하기 때문이다. 여기서 終敎門과 頓敎門은 言(가설)과 黙(불가설)으로 구분된다. 이로써 頓敎의 교체도명확해지며, 頓敎의 위치도 三乘의 궁극의 지위를 차지하게 되었다. 義湘은 頓敎를 五敎判의 頓敎로 보았는데, 華嚴經問答 에서도 이를 따르고 있다. 다만 頓敎를 一乘圓敎보다 三乘의 終敎에 더 밀접하게 파악한 것으로 판단된다. 終敎門 내에서 始門과 終門의 구분은 舊唯識내에 眞食( 梨耶唯識) 과 妄識(意識唯識)의 전개방식에서 기인한 것으로 파악된다. 비록 終敎의 始門에 속한 妄識 은 如來藏眞食을 依止로 하기 때문에 初敎의 始門에 속하는 新唯識의 妄識과는 구분된다. 마지막으로 終敎부터 圓敎까지 표면상 그 敎體를 공유하고 있으므로 교체만으로는 敎判의 소속 여부를 구분할 수 없게 된다. 이에 終敎와 頓敎는 둘 다 無分別의 理의 입장에서 可說과 不可說의 여부에 따라 구분하게 되었고, 三乘(終敎‧頓敎)과 一乘(圓敎)과의 구분은 一乘에 대한 안목을 갖추었는지 여부로 판단해야 할 것이다.

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八世紀初頭、唐代の中國で獨自の華嚴思想を築き上げた李通玄は、教相判釋(判教)にもその獨自性がうかがえる。それは教相を經典ごとに辨别するという形式的な新奇さに留まるものではない。中でも重要なのが慈悲行の實踐の場としての「世俗」の重視である。李通玄は自心の根本智によって開顯される無自性空の「理」が「事」として具現化されるこの俗世間こそ、華嚴菩薩道の實踐の場であるとした。李通玄の判教には「入法界品」の解釋を通じて彼が展開した俗世に於ける智悲成熟の過程としての菩薩道論が反映されているのである。李通玄は『新華嚴經論』の玄談で「十門之别」を設定し、『華嚴經』がその他の經典・教說に比べて優れている點を說くが、その第二に「依宗教别」として佛陀一代の教說と宗趣を解析している。李通玄は佛の教說として①有教(小乘)、②破有明空教(般若經)、③不空不有教(解深密經)、④說仮即真教(楞伽經)、⑤即俗恆真教(維摩經)、⑥引権帰實起信教(法華經)、⑦令諸三乘捨権向實教(涅槃經)、⑧於剎那之際通摂十世円融無始終前後通該摂教(華嚴經)、⑨共不共教、⑩不共共教を列挙する。ここで注意すべきなのは第一に『解深密經』が「和會空有」「令偏見者不滯 空有二門」とされ、「空」はあくまでも再び「有」と和會されるべきとする點であり、第二點として『法華經』『涅槃經』の教えは共に「権」から「實」へと衆生を導く教えとされる點である。李通玄の言う「権」とは「有浄土穢土自佛他佛欣厭等諸邪見不稱真障」ということであり、「實」とは「一切有情皆有佛性、如佛無異、但爲無明覆故不見」であって、『華嚴經』が說く「爲法界體無礙故、如円珠無方、如明鏡頓照、如虛空無隔、如響無依、如影不礙」という境地だというのである。ここには「浄穢・彼此」の區别に拘泥することへの執拗な批判がある。李通玄は善財童子が菩薩道を問い、求めて歩く「入法界品」を『華嚴經』の正宗分としたが、そこで說かれる菩薩道とは、出世間的な智慧である根本智・空慧を基盤としながらも、再び「純是善入世間。無求出世佛果故」と、この「世俗」の場に立ち返り、「純是利他」の行に至るものである。これまで李通玄の思想は根本智・空慧を重視した點が強調されてきたが、その先に展開する菩薩行に改めて光を當ててみれば、李通玄の判教にも、「隨生死流轉波浪不息之大苦海」でありながら同時に「文殊普賢常遊止之華林園苑」でもある俗世間でこそ佛道は實踐・成就されるべきだとの主張が見えてくるだろう。

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法蔵『華厳五教章』の教判論における大乗始教は新訳の唯識思想、法相宗の思想を指し、そこにおいて提起された真如凝然不作諸法という規定は新訳唯識の思想的立場を最も端的に示す有名な言葉となっている。さらにその五姓各別説は、法蔵の教判体系に組み入れられて一層の展開をみるようになった。法蔵は法爾の五姓各別のほかに暫時の五姓各別、分位の五姓各別をもちこんで、一切衆生悉有仏性の底意から性種姓と習種姓とを示し、これらを縁起相由のものとして説き進め、終教に至って悉有仏性を高唱するという性相融会の態度を発揮していく。ところで唐初期唯識思想との絡みとして、これまで提起されたものに特に円測の問題がある。華厳宗ではないが法宝の『一乗仏性究竟論』が円測の『解深密経疏』を参照していることは既に指摘されたことがある。また法蔵の『華厳経探玄記』の教体論がやはり円測の『解深密経疏』を依用していることも既に明らかにされている。すなわち法相宗正系たる基の系統を華厳教学と対立する位置に置き、円測を新訳唯識でありつつ一乗思想にも同調的態度を示そうとしたという、いわば中間的な位置に整理しようとする見方が多く行われてきた。今回の発表はその点をいま一度洗い直すものである。法蔵が唯識学を学んだ拠り所としてみると、おそらく円測の唯識学の存在は大きかったかもしれない。しかし一乗・五姓各別をめぐり、“円測の解釈から基の解釈へ”という発展内容を検討するとき、法蔵のような大乗始教理解への更なる展開を予想させるものである。