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試論村上春樹作品《第七位男士》與《萊辛頓的幽靈》的生死世界中的〈恐怖〉與〈惡〉

村上春樹「七番目の男」と「レキシントンの幽霊」の死生世界にみる〈恐怖〉と〈悪〉

摘要


筆者留意到村上春樹在《第七位男士》(1996.2)與《萊辛頓的幽靈》(1996.11)兩作品中頗注重對於在生離死別經驗後主角們的記憶喪失與脫離現實感的描寫,且對於在此一跨越喪失/空白的領域中,主角的感情表現(恐懼感)展現高度關心。筆者認為村上春樹並不將死亡看待成是生命的一部分,而是創造出一任誰都無法打擾的「空白」的時間與空間,並藉由主角們的精神狀態(比方說逃避現實或陷入恐懼,深沉的睡眠中),重新提起對「恐怖」或「惡」的思維方式。村上春樹將「恐怖」或「惡」視為個某一共同體所產出的單一或同一性質的感情,且指出若把此種感情簡單地歸結為人的罪惡百相,這樣的行為才是真正的恐怖,或應當稱之為暴力。筆者認為村上春樹透過兩部作品的寫作試驗,徹底刷新「恐怖」或「惡」的概念。由《第七位男士》與《萊辛頓的幽靈》兩部作品可看出村上春樹在歸國後面臨到阪神大地震與地下鐵沙林事件後,如何透過創作展現其對生離死別描寫的挑戰心。透過本論文的分析,觀察到了村上春樹開始了自己對「恐怖」或「惡」的有意識的詮釋,爾後孕育出村上文學的新面貌與新期望。

關鍵字

生者 死者 恐怖 空白 現實逃避

並列摘要


村上春樹の「七番目の男」と「レキシントンの幽霊」においては、主人公たちの現実感喪失、記憶喪失、そして現実逃避が徹底的に描き尽された。この空白の境界領域で喪失を越えた感情と、人間の心理(恐怖)との対応関係に関して、作家の高い関心が見て取れる。ここでは「死」/「亡霊・幽霊」の世界を否定するより、むしろ簡単に、過剰に「死」「亡霊・幽霊」を肯定する(生の一部)、あるいは否定すること(恐怖感)によっての観念を拒否していくと考えられる。ですからここで取り上げたのは、死者と生者の間の「断絶」=「空白の境界領域」に注目する視線によって発生する自己範疇の世界=誰も邪魔できない<空白>の空間と時間なのである。村上の試みは、まず主人公たちの解離状況の身振りと語り口を通じて、「悪」や「恐怖」に対して新しい思考方法を喚起させることにほかならない。つまり、恐怖は個人・主体の表の共感感情から産出する同一性・単一性で、人間内面の「悪の諸相」を解釈し、帰結することこそ暴力であり、恐怖であろうと、<恐怖>の概念を刷新するものとしてあったと考えられる。「七番目の男」と「レキシントンの幽霊」はこれ以後村上文学の中で繰り返し現れるモチーフが提示され、かつその後の発展が暗示される作品であると思われる。そういった意味で、この二つの短編物語は村上春樹の帰国後(阪神大震災と地下鉄サリン事件以後)の新しい文学創作の前奏曲とみなすことができよう。

並列關鍵字

生者 死者 恐怖 空白 現実逃避

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