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  • 學位論文

日本攻擊珍珠港之分析與評價

日本の真珠湾攻撃についての分析と評価

指導教授 : 喜田修

摘要


中 文 摘 要 日本自從明治維新以來,採用新制度,制定新憲法,朝富國強兵之路邁進。中日甲午戰爭後領有台灣,日俄戰爭後獲得東北南滿鐵路的各項權利和設備。日軍之目標乃是控制整個東北,因此常與當地之軍閥發生衝突。日本中央政府雖然有「事態不宜擴大」之方針,然而關東軍卻視而不見,進一步佔領全東北,更於蘆溝橋事變之後和中國全面進入戰爭狀態。新興殖民帝國的日本持續走擴張主義之路線,美國擔心在中國的利益受損,美日之間的對立進一步加深。對此美國以禁運和凍結資產之手段制裁日本,日本為了牽制美國便與德義兩國締結同盟關係。之後便爆發了美日之間的太平洋戰爭。 打勝戰的條件不只是要有軍事力量而已,還包括非軍事力量的天然資源、工業生產力等等。日本因明治維新使得軍備和生產現代化,並名列世界列強之中,然而石油、鐵礦卻必須仰賴美國,美國一旦採取禁運措施,日本就只有死路一條。1941年美國汽車年產量超過400萬輛,日本卻只有4萬6千輛。從戰爭暴發到結束的4年,美國生產了30萬架的飛機,日本僅生產了6萬8千架。光看天然資源和生產力就可預知日本毫無戰勝的機會。 日本為了奪取天然資源因而計畫侵占荷屬印尼;日本也體認到此舉必定遭到美國的阻擾,對美之戰在所難免。雖然日本持續進行其擴張政策,然而美日外交關係仍然是日本重要的課題,因此仍不放棄對美交涉。日本之策略,美國以不信的眼光視之,並對日本下最後通牒。此舉日本解讀為美國對日態度趨強,最後決定對美開戰。開戰之初非摧毀珍珠灣不可之信念所驅,攻擊珍珠灣雖有眾多不可測之因素,最後仍決定此攻擊行動;至此日本也踏上了太平洋戰爭之不歸路。 日本雖有種種的困難當前,在兩週的航行中,蒙天佑神助眷顧的日本機動部隊未遭遇任何的商船或軍艦,北太平洋之風浪也比預期的小。美國一直認為日本沒有長距離的作戰能力,因而美日關係雖然日益緊張,美國卻沒有加強警戒措施,以致於日軍在珍珠灣的空襲獲得相當的成功。以飛機攻擊珍珠灣成功之後,也確定了飛機在海戰中的角色優於軍艦。 第一輪攻擊之後,幾乎可確定美軍戰機和軍艦全毀,但是港口設備和油槽卻毫髮無傷。對此戰果感到滿意的艦隊司令南雲中將隨後立即脫離戰場,踏上歸途。日軍未發動第二輪攻擊對美國來說可說是不幸中的大幸。未受損的航母艦隊,加上本土支援的飛機,立即投入反擊日本的作戰。若是油槽全毀,美軍可能半年之內無能力反擊。 陷入中日戰爭泥沼中的日本又對美英荷開戰,日本有認真思考過戰爭一定會勝利的問題嗎?山本五十六說過一句常被引用的話:「一年半載之內會有一番作為,兩三年後就完全沒信心了。」首相東條英機也曾內心不安地說過:「雖然希望戰爭能早日結束,卻想不出一個好辦法;很遺憾找不到置敵於死地的方法。」可見日本領導階層是在毫無勝戰的信心之下對美開戰。 美軍對於指揮官的選拔重視能力,也盡全力保護士兵的生命,甚至容許士兵投降。相對的,日軍對士兵的體罰卻是家常便飯,戰場上不戰勝便戰死,決不容許投降。對於指揮官的選拔重視年資,資深者優先任用,資淺者縱有能力亦不于考慮;作戰失敗的指揮官少有追究其戰敗責任。日本戰略資源不足,生產力、人事制度均不如美國,要戰勝幾乎毫無希望,日本應避免與美國正面衝突和攻擊珍珠港。

關鍵字

日本 太平洋 珍珠港 戰爭 空襲

並列摘要


要  旨  日本は(1)明治維新以後、新しい制度を採用し、1889年大日本帝国憲法を発布し、立憲制を行い、富国強兵へ邁進した。(2)日清戦争で台湾を領有し、日露戦争で長春以南の南満州鉄道の利権を得た。(3)全満州を支配するつもりの日本軍は満州地方軍閥との衝突が激しくなった。(4)日本中央政府は「事態不拡大方針」であるが、関東軍はこれを無視して満州全域を占領した。(5)盧溝橋事変で一挙に中国との戦争に突入した。(6)新興植民帝国の日本は拡張主義路線を走り続けた。(7)中国における利益に関心を持っている米国との対立が深刻になって、米国は対日禁輸、資産凍結の対日制裁を断行した。(8)アメリカを牽制しようと考え、日独伊三国軍事同盟を締結した。それで日米間の戦争が起った。  戦争に勝つための条件には軍事力だけではなく、天然資源へのアクセス能力、工業生産力などの非軍事力も含まれる。日本は明治維新から軍備と生産の近代化に努め、やがて世界列強に追いついたが、石油、鉄鉱はアメリカからの輸入に依存していたので、石油の禁輸措置がとられると死活問題になった。1941年、アメリカの自動車生産量は年間400万台を超えており、日本は百分の一の4.6万台、開戦から終戦までの4年間、アメリカは30万機以上の航空機を生産したが、日本は僅か6万8千機を作ったのみであった。天然資源と生産力を見ただけでも、日米戦争は日本に勝ち目があるとは思えなかった。  日本は天然資源を手に入れるために南部仏印に進駐するつもりであった。しかしアメリカとの対立が深刻化し、アメリカとの戦いが避けられない状況になった。外交交渉に日米関係解決の可能性を見る日本は、拡張政策を続けながら、対米交渉も進めていた。アメリカはこのような日本の態度に不信の念を抱き、最後通牒の「ハル・ノート」を手渡した。日本側はアメリカの態度の硬化を読み取り、対米開戦を最終的に決定した。開戦劈頭に真珠湾攻撃が不可欠との信念で、補給、秘匿、天候、魚雷、種々予測困難な課題があるにもかかわらず、真珠湾攻撃を決行して、太平洋戦争の道へ踏み切った。  日本にはいろいろな難題があったが、天佑神助をたのむ機動部隊がいくつかの幸運に恵まれた。航行二週間、米国艦隊にも商船にも遭遇せず、風も波も予想より強くなく、一路東航を続けた。アメリカは、日本は長距離作戦能力がないと考えて、日米関係がいくら緊張しても、警戒強化の処置をとらなかった。真珠湾の奇襲は成功した。航空機による空襲大成功のハワイ作戦により、海戦で飛行機の艦船に対する優位が決定的となった。  第一撃後、米艦船はほぼ全滅し、航空機も殆ど破壊されが、港湾施設、石油タンクはまだ無傷で残った。南雲司令長官はこの戦果に満足したのか、直ちに帰途についた。日本軍の第二撃断念は、米軍にとっては不幸中の幸いであった。残っていた空母重巡部隊は、本土から補充された航空機と共に、直ちに反撃作戦をとった。もし石油タンクが破壊されていたら、残存米艦隊は半年ぐらい反攻できなかったであろう。  日中戦争が泥沼に陥りながら、日本はさらに米英蘭と開戦した。日本は本当に勝算ありと考えていたのだろうか。よく引用される山本五十六の言葉に「半年か一年の間は暴れまわって見せるが、二年、三年となれば全く確信がもてぬ」というのがある。首相の東条英機には「戦争の短期終結は希望するところにして、種々考慮するところあるも名案なし。敵の死命を制する手段なきを遺憾とす」と頼りない不安な発言があった。日本の指導者は戦勝の見通しがないまま、対米戦争に突入した。  米軍は指揮官の選抜を能力を重視で選ぶ。兵士の体と命を全力で護る。捕虜となることも容認する。それに対し、日本軍は体罰が日常茶飯事で、戦場では全滅するまで戦い、捕虜となることを厳禁していた。指揮官の任命は年功序列を重視して先輩が優先、後輩は能力があっても先輩を超えて選ばれないのが通例であった。指揮官の敗戦の責任も殆ど追及しない。日本は戦略資源が不足し、生産力も劣り、人事制度も非合理的で、これでは戦勝は到底無理であった。「日本はアメリカに真っ向から衝突を避けるために真珠湾攻撃を避けるべきであった」という結論になる。

並列關鍵字

Japan The Pacific Ocean Pearl Harbor war air-raid

參考文獻


    学研社130-133頁
参考文献
秋定鶴三(1953)「支那事変」『秘録大東亜戦争史』富士書苑132-145頁
秋定鶴三(1953)「満州事変の勃発」『秘録大東亜戦争史』富士書苑9-19頁
池上秋彦『デジタル大辞泉』小学館出版http://dic.yahoo.co.jp/

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