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烏爾利希.貝克「風險社會」論述下的日本原發文學書寫-對照多和田葉子與亞歷塞維奇有關核災創作-

Ecriture of the Japanese nuclear power plant literature seen from the view point by Ulrich Beck's "risk society": Comparison between Yoko Tawada and Svetlana Alexievich on nuclear power plant literary creations|ウルリッヒ・ベック「リスク社会」による原発文学のエクリチュール―多和田葉子とアレクシエービッチの原発文学創作を対比させながら―

摘要


本論文援用烏爾利希・貝克(Ulrich Beck)主張「風險社會」的論說(risk society theory 1986 年)的概念,分析了同樣是以核災為主題創作之多和田葉子的《獻燈使》(2014)以及斯維拉娜‧亞歷塞維奇的《車諾比的悲鳴》(1997)兩部作品。經由兩者之分析對照之後,可以獲得以下確定的論點。多和田葉子所創的《獻燈使》提示的3 個思考方向。一為當人類遭逢到共業的大災難、自食其果時,有可能採取物種突變進化方式,躲過浩劫餘生。二為笑看嚴肅課題,認真思考對策。三為脫日課題,的確值得傾聽。而斯維拉娜‧亞歷塞維奇所創的《車諾比的悲鳴》中提示的3 個主題(阿富汗戰爭與輻射、家鄉與墳墓、上帝與祈禱),的確是反映出受到車諾比事件衝擊人們的如實心聲。兩者核災書寫的差異,除了可視為文化差異的反射之外,更能窺得日本含蓄表達憤怒、苦中作樂、宿命論中懷抱希望的原發文學書寫之一環。

並列摘要


This paper has carried out comparison consideration of Yoko Tawada's "Kentoshi" (2014), and Svetlana Alexandrovna Alexievich's "Voices from Chernobyl: The Oral History of a Nuclear Disaster" (1997) with the point of argument from risk society theory by Ulrich Beck. The following conclusions is able to be drawn as a result of this analysis. First, Yoko Tawada's work has described the possibility of the way out by the change of a gene. Next, this work is contemplating on the serious subject by laughing. Finally, this work tries to escape from Japan. On the other hand Alexievich's work is telling three points ;the Afghan War and radiation, a hometown and a grave and God and pray. As mentioned above, both works differ in the ecriture about a nuclear power plant. In the case of Japan, it is accepted as one of the features that a writer does not throw away hope, holding Japanese fatalism.|本論文は、ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck)の「リスク社会(risksociety theory 1986 年)の論点を援用し、原発文学を主題に書かれた多和田葉子の『献灯使』(2014)とスベトラーナ・アレクシエービッチの『チエルノブイリの祈り』(1997)を比較考察することにした。分析の結果、以下の結論を導き出すことができた。多和田葉子の『献灯使』では3 つの論点を纏めることができる。まず、かつてない災難に会った際、遺伝子の変容による打開策を求める可能性が挙げられる。次は、笑いながら深刻な課題を思索し模索することである。最後は、日本からの離脱である。それに対して、スベトラーナ・アレクシエービッチの『チエルノブイリの祈り』は、アフガン戦争と放射線、故郷と墓、神と祈りの三つのキーワードにより、チエルノブイリの被害者の心境をリアルに反映することができた。上述のように、両作品では原発に関するエクリチュールが異なっているが、それは両国の文化的差異として認めることができる。しかし、その中からは、ロシアのように神に向かって憤懣を晴らそうとせず、日本では、その憤慨に堪えて日本的宿命論を抱きながら希望を捨てない点が日本の原発文学のエクリチュールの特徴の一つとして認められる。

參考文獻


柿谷浩一編(2011)。日本原発小説集。水?社。
ウルリヒ・ベック、東廉・伊藤美登里訳(2011)。危険社会新しい近代への道。法政大?出版局。
今田高俊(2002)。リスク社会と再帰的近代―ウルリッヒ・ベックの問題提起。海外社会保障研究。138
萩原優騎(2010)。リスク社会と再帰的近代化。社会科学ジャーナル。69
中野和典(2011)。空洞化する言説―井上光晴『西海原子力発電所』論。原爆文学研究。10

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