大正時代に、いわゆる欧文脈(日本の近代化の過程で西欧語の影響を受けた日本語文)が完成したといわれている。その文体形成に影響のあった作家の一人に有島武郎がいる。有島の欧文脈は、身体表現で伝統的な日本語と大きく異なっている。文学作品を中心とした筆者の一連の先行研究によると、有島の文には欧文引用や外来語、西欧的な発想による比喩など語彙の面のみならず、構文面でも無生物主語、受身形、進行形、代名詞、指示詞など西欧語からの影響が計量的に顕著である。本研究では、代表作の一つ『或る女』(1919)より以前に書かれた「An Incident」を取り上げ、身体に関する表現を語彙と構文の両面から検討した。この小品では、総文数155の約6割の文で身体に関わる何らかの表現が使われている。伝統的な日本語にはない身体表現を無生物主語とする他動詞文、西欧語の所有格に当たる身体表現に<代名詞+助詞「の」>が先行する用例、<被害の受身>ではなく西欧語的な受身形、進行状況の豊かな表現などである。身体表現の用法からは、有島武郎の文章には職業作家として本格的に作家活動に入る以前にも、既に欧文脈的傾向が顕著なことが明らかである。