『騎士団長殺し』は「絵を描く」ことを職業にする画家を主人公とする作品である。これまで特権化されてきた「文章を書く」ことがとって変わられたのは「自己療養」に関わると考えられる。生活のために肖像画を専門とする画家となった「私」は、自分のかつて目指した抽象画が描けなくなってくる。これは「私」の健全な結婚生活に関係するものである。結婚生活に不満を感じない「私」は「自分のための絵画」を描く意欲を失ってしまう。「自己療養」をする必要のない「私」は「自己療養」の手段である「自分のための絵画」が描けないのも当然の結果である。免色という他者を受け入れることによって、自分の暴力性を認識した「私」は「自分のための絵画」を完成する。したがって、喪失からの回復もなり遂げる。これは恰も「騎士団長殺し」を描いた雨田具彦と同じようなプロセスである。『騎士団長殺し』において、暴カは死をもたらすカとともに、生に繋がる力でもある。「騎士団長殺し』における絵画は未来を繋ぐものだと考えられる。
《刺殺騎士團長》的主角是以畫圖為職業的畫家。村上春樹作品中常見的寫文章被畫圖取代,這和「自我療養」有關。為了生活「我」成為了專門畫肖像畫的畫家,也因此「我」畫不出自己過去嚮往的抽象畫。這其實和「我」健全的婚姻生活有關。對自己的婚姻生活沒有任何不滿的「我」逐漸畫不出「為了自己的畫」。不需要「自我療養」的「我」當然沒辦法畫出「自我療養」=「為了自己的畫」。當「我」心中接受免色之後認清了自己心中的暴力性,也因此畫出了「為了自己的畫」。同時也完成了從失去當中的復原。這樣的過程和畫出「刺殺騎士團長」的雨田具彥相仿。《刺殺騎士團長》中,暴力不但是帶來死亡的力量,同時也是連結生命的力量。《刺殺騎士團長》中的繪畫連結未來。|The narrator is a work featuring a painter in Killing Commendatore. What has changed for the novelist so far has to do with self-medication. The narrator who leads a healthy life, is no longer able to paint a "painting for myself". This is because the narrator does not have to recuperate. By accepting Menshiki, the narrator recognize my violent nature. Therefore, he is able to paint a "painting for himself". This is the same process as in the case of Tomohiko Amada. Violence is the power of death and life.